Column Vol.4
2018.06.15
20代最後の歳を迎えたあたり、海沿いのとあるしずかな街でほぼ毎日を過ごしていたときがあった。
そこは、日中は観光客で賑わい、日が沈むととてもしずかになり、少し歩けば浜がある、とても美しい街だった。
その頃は、所属していた事務所を辞めて、時折貰う仕事をしたり、すこしずつ音楽活動を始めたりしながら、ひっそりと暮らしていた。ごくたまに撮影や打ち合わせに向かうとき以外は、東京を避けるように、毎日海風を吸い込んだり、夕陽が落ちてゆくのを眺めたりしながら過ごしていた。
世間からゆっくりと自分が忘れ去られてゆくような感覚があった。
友人の紹介で、実家からほど近い観光地でもあるその街の、とある定食屋さんで時折働かせてもらうようになった。もともと料理を作ったり、お酒を作ったりすることが好きだった。
そのお店のご主人はまだ40代で、信じられないくらい良い人だった。働く人たちも、50代の主婦から、他に本業がある人、それから高校生まで、それぞれ色々な事情がありながら、皆仲が良く、とても風通しの良い場所だった。
職業もよくわからない、しかもそれもちょっとお休み中のわたしにも、皆とても優しかった。午後まで働いて、まかないを作って食べていると、向かいのカフェの女の人がよく売れ残ったケーキを持ってきてくれたりした。
その街で出会う人は、どこへ行っても皆暖かかった。そのころ、社会からこぼれ落ちてしまったような、どこにも居場所がなくなってしまったような気がしていたわたしにとって、その暖かさは救いのようなものだった。
その店のご主人は地元のつながりがたくさんある人だったので、お店にはよく同級生だという賑やかな男の人たちや、商店街の組合の人たちがお酒を飲みに来ていた。彼らはいかにも海の男、といったいでたちの、よく日に焼けて、大きな声で笑う、男らしい男たちだった。サーフィンをしている人も多かった。波を読んで、当たり前のように海と遊び、陸へ戻ってきて、日が没すれば酒を飲み始める彼らには、さっぱりとした、それでいて暖かい雰囲気があった。
そのなかで、エプロンをつけて瓶ビールを運んだり、笑ったり、ねぎを刻んだり、くるくる動き回っているわたしは、まぎれもなく定食屋さんの女の子で、そこには太古から続く男女の役割のような、明確な役割があって、そこに身をゆだねているのは不思議と心地が良いものだった。
それは映画の中の登場人物になり切ることともどこか似ている気がした。
そんなすっぽりと包まれたような日々の風景の中で、ある日、ちいさな割れ目のような違和感を見つけた。
いつもと変わりない天気の良いある日の午後に、買い出しから帰ってきたお店の板前さんが、「またおったで、ばばちゃん」と、少し興奮気味に話しているのが聞こえた。
大阪生まれの関西人の彼は、とても手際がよくて、明るい。かわいい奥さんと、生まれたばかりの赤ちゃんがいて、もうすぐこの店を辞めて自分のお店を開く予定だった。
一緒に働いていて、とても気持ちの良い人だった。
「ばばちゃん」
という名前は、今まで誰からも聞いたことのない名前だった。何故だかその名前は、ちいさな違和感を持ってその場所に響いていた。
お店の子や顔なじみのお客さんたちが、えー、うそー、などと笑いながら彼の話を聞いているのを横目で眺めながら仕事をし、落ち着いてから、なになに、どうしたの?と輪に混ざりにいった。
「かずはちゃん、ばばちゃん知らんの?」
と、彼は言う。
しらない、と答えたところで、
「あっ、いま外通ったっ!!!」
と誰かが叫んだ。
「かずはちゃん、見てみ!」
と言われて、急き立てられるように、引き戸を開けて店の外へ出た。
のどかで、殆ど誰もいない道。
目をこらしたが、いま通りかかったはずの「ばばちゃん」は角を曲がってしまったのか、そこにはもう誰も居なかった。
店へ戻り、誰も居なかったことを告げると、ひどく残念がられた。
なんだか、幻の獣に遭遇しそうになって、それを逃してしまったような、そんな気持ちになった。なんともいえない気持ちだった。
「ばばちゃん」は、地元で有名な女の人なのだそうだ。若い頃は、たいそう可愛くて、雑誌の読者モデルなどをやっていたほどだったらしい。
それから、色んな男の人に「やられまくって」、悪い男の人に薬を覚えさせられて、そのまま溺れてしまって、精神をやられてしまって、帰ってこれなくなってしまった人のようだった。
今は、年齢もわからないほど、容姿が変わってしまって、まともに会話もできず、昔着ていた洋服なのだろうか、とてもカラフルで、すこしサイズの合っていない服を着て、街を散歩したり、波の出ていない日に沖へ出て、誰もいない海でずっと、来ない波を待っていたりするのだそうだ。
そんな彼女の姿は、小さな街のなかでやはり異様で、それを皆なんとなく、暗黙の了解のようなものの下で見守っているらしかった。
「ひでえ話だよなぁ」
と、海の男たちは笑いながら、言う。そこには、いやらしさは全く無い。思いやりがないわけでも、ない。
だけれどわたしは、そこで皆と同じように話に乗っかって笑うことが出来なかった。
笑っている人ひとりひとりの顔を注意深く凝視し、観察をし始めている自分が居た。
なぜ、笑えるのだろう?
彼らに、悪意は全く無かった。それは解った。
ただわたしは、彼女の話を他人事だとは思えなかったのだった。
もしかしたら、彼女の姿は未来の自分の姿かもしれないとすら思った。
わたしは色々な男の人に「やられまくって」いないし、薬を覚えさせられてもいない。
出会う人にはとても恵まれていて、守られていたほうで、芸能の仕事をし始めて嫌な思いをしたことも殆ど無い。
けれど、この数年間で、少しでも自分の容姿を売り物にしたその瞬間に雪崩れこんでくる自意識や承認欲求と折り合いをつけることの難しさや、それがそのまま異性への承認欲求へとすり替わってしまう女性もいることや、そうなったらもはや終わりのない迷路に迷い込んでしまったようなもので、だんだんと自分の作り出した虚にのまれていってしまうからくりのようなものは、嫌でも身に染みてわかるようになってしまっていた。
そういう人の匂いが嫌で、距離を置くようになった。
自分もそうなってしまうのが怖かった。
ほんとうは少し、自分もそうなりかけていたのかもしれない。
芯のようなものを持ち続けていないと、簡単に搾取されて空っぽになってしまう。
多少の美しさを持って生まれ、周りにちやほやされることが多い女性ほど、その穴にはまってしまうことが多い気がした。
それはとても、残酷で悲しいことだった。
「ばばちゃん」は、その道をまっすぐ進んでしまっただけなのかもしれない。わたしがこわくなって、車線変更してしまった道を、まっすぐ。
その話を聞いてから、のどかな生活のなかで、見たことのないはずの「ばばちゃん」がわたしの心の中にいつも静かに存在するようになった。
それは、なり得たかもしれないもうひとりの自分だった。
暇な時間を埋めるように、店で働いたり、ひとと会ったりしながら、ふとした瞬間に目を閉じると、静かに波の音が響くなかで、ひとり、海へ入っていって波を待っている彼女の姿が浮かんできた。それは、寂しくはあったが、そんなに悪い風景のようには思えなかった。
それから半年ほどが経ち、わたしは街を出ることにした。
居心地の良い場所で、仲良くしてくれる人もたくさんいて、なぜそこを出ようと思ったのか、いまでもうまく説明はできない。
けれど少なからず、「ばばちゃん」がわたしの中にもたらした小さな違和感が関係しているような気も、する。ただ、ゆっくりと息ができるようになって、しっかりと自分の居場所をつくることができたとき、わたしはもう一度、まだやり残していたことをやってみたくなったのだった。
その選択は正しかったのか、いまでもわからない。
ふと戻りたくなって、その街を思い浮かべるとき、目を閉じると彼女の姿はまだ、しずかに浮かんでくる。
小宮一葉(Kazuha Komiya)
1986年生。東京音楽大学卒業。
在学中、今泉力哉監督作品に出演したことがきっかけで芝居を開始。2012年に公開した同監督の映画「こっぴどい猫」でヒロインを演じる。
出演した吉田光希監督「三つの光」が第67回ベルリン国際映画祭フォーラム部門出品という快挙を果たし、今秋公開中。
また2017年、tapestok recordsより〝faela〟として音楽活動も始め、single 「em」をiTunes、OTOTOYでリリースしている。
主な出演作:「ひ・き・こ 降臨」(吉川久岳 監督)、「お兄チャンは戦場へ行った!?」(中野量太 監督)、「5 to 9」(宮崎大祐 監督)
舞台出演作:マームとジプシー「cocoon」(藤田貴大 作・演出)
http://kazuha-komiya.com/
http://tapestokrecords.com/
題字イラスト
青木 公平 (kiki)
1981年日本生まれ
温室グラフィティ育ち
最近髪を短くしました。
言葉と線を便りに絵画等、作品を制作。
quiet revolutionをスローガンに、人の得意と得意を物々交換しています。
現在台南クリエーティブ集団「colorbit」所属。鎌倉在住
instagram @kikiintainan
kikisun.yumewomilu@gmail.com
写真
辻優史(Masafumi Tsuji)
1993年横浜市出身。
在学中に江口宏彦氏の下でアシスタント経験をする。
マガジンの撮影の他、NHKのアーカイブス映像など。
https://www.masafumitsuji.com/