interview Vol.3
2020.03.29
リトルプレス『dm』は、「ことばの落穂拾い」をテーマに掲げ、現在までに3号を刊行して、30人以上に寄稿などの形で参加していただきました。2014年夏の誕生以来、ささやかながらもしっかりと歩んでいけたこと、とても嬉しく感じています。
その一方で、『dm』も第3号の刊行を機に、大幅なリニューアルを敢行。これまでとはまた違った活動を目指していく中で、「自身の原点、そして今後も大切にすべき地点をこの機会に再確認してみたい」と思ったことが、この対談の発端となりました。
対談相手は、2016年刊行の第2号に寄稿し、過去のインタビュー記事でも協働してくださった清野陽平さん。『dm』の空気感をつかみつつ、雑誌の制作サイドとはまた違った立場から、時に寄り添い、時に鋭い言葉を投げかけてくれました。読者の皆さまが対談を楽しみ、『dm』の次の動きにも期待してくれたら幸いです。
トップ画像提供:沖縄不動産文庫「ブンコノブンコ」
――『dm』を作り続ける理由として、普段文章を書かない人だったり、出版に関わっていないような人の声を広めたい、という気持ちがあるそうですね?
それはあります。また、「そうした人たちの今の声をずっと保存していきたい」という思いもあるんです。
――アーカイブ(記録と保存)していきたい、と?
「アーカイブ」というより「ドキュメンツ」ですね。個人的には、「アーカイブ」と「ドキュメンツ」を分けて考えていて。
「アーカイブ」というのは、例えばある大きな事件が起きた際、大量に流通する現場写真などを指します。今、その写真を見返しても、もっぱら「記録」としての価値が大きいですよね?
――「情報」ということですよね。
そうです。こちらが考える「ドキュメンツ」というのは、記録された時だけではなく、現在見ても「情報」以上の価値を持ってくるもののことです。
――『dm』は情報だけでなく、感情も扱うということで、繋がっている感じがします。
執筆者一人ひとりが書いたことの意味が、ずっと先の2050年まで繋がっていけばいいなと。そうした感じが、こちらの考える「ドキュメンツ」です。「生きた情報」だと考えてもらえればいいかなと。
だから、個々の執筆者が今やっている活動の方法論などは、『dm』で書いてもしょうがないのかなと思っています。「あなたがどういう人生を歩んできて、どういう哲学を抱いているのか」っていう一点に、より多くの関心があります。
――なるほど。そもそもの話になるんですけど、『dm』をどうして始めたんですか?
当時の仕事を辞めて、1カ月くらいのんびりしていた際、「自分の企画で雑誌とか本をまだ作ったことがなかったな…」「版元を介さず、自分が自分の力だけで、本や雑誌を作るようになったら、果たしてどういうものが出来上がるんだろう?」ってふと思ったんです。
そうしたら、”ことばの落穂拾いをする雑誌”っていうのがピンときて…。
――雑誌とか本を出したい、という気持ちは昔からあったんですか?
ありました。ただ、編集者になろうと思ったのは確か高校生か中学生くらいで、当時は会社に普通に所属して、自分の企画を通して「仕事が形になったものとしての本」を作るのが普通かな、ってベタな考えをしていました。そんなふうに「製品」としての本や雑誌を作り続けた末、「では会社を辞めたら、自分が何をやれるのかな?」っていうのを改めて考えた感じです。
――その時、どんなことを他に考えていたんですか?
これから自分がどういうふうになるかがよく分からないし、そもそもの話として出版に関わる仕事を果たしてこの先もやり続けるべきなのかな、って。
――自分の今後について、と。
時間は割とあったので、いずれ作る雑誌のテーマをつらつらと考えていたりもしたんですけど、「そういえば最近の雑誌って、あまり人そのものにスポットを当てたり、その人の肉声に迫ったものがなく、今の潮流を紹介しているだけのことが多いのかな」って。
――それはすごく思いました。
もうちょっと長いスパンをかけた、“ことばを集める雑誌”を作れば、雑誌の生命線も長くなる。その珍しい方針に賛同してくれる人も出てくるかな、って感じたわけです。
――「情報自体が劣化というか古くなっても、こういった言葉は残るな」ってずごく思います。
それがさっきの「ドキュメンツ」にあたります。
――昔のドキュメンタリー映画や、ヒューマンドラマなどを観た時、そこに映し出された事象が古くても、上映当時と同じように何かを感じることができるじゃないですか。あれってやっぱり言葉とか国とか違ってもすごく共感できる、人間の根本的な何かに響くものかなって。
まったくそうですね。
――それが、言語化しにくい「エモさ」というものになると思うんですけど、そういうのが逆に今すごく薄いじゃないですか。
確かに。あと、これまでのキャリアの中でもっぱら雑誌を作ってきたんですが、「今この人がウケているからこれにしよう」「このトピックがイケてるから特集しよう」とかやってると、どんどん自分が消耗していくんですね。今を追い続けるだけだと、こっちが削れていくなと感じていて。
――「何も自分がやらなくてもいいや」って。
思ってしまいます。自分のお金で100%作っている以上、過去のカルチャー雑誌などをなぞっても仕方ないので、そことは違うスタンスを貫いていきたいなとは考えていますね。
――でも、何かを作るのってすごく大変じゃないですか。今お金の話が出ましたし、著者を見つけたり、コミュニケーションを取るのも、仕事ならまだ分かりますけど、「自主制作雑誌」というところで形にするのってキツいと思うんです。でも、その中でやり続けて、しかも3号まで出てるじゃないですか。どうしてそこまでやるんですか?
SNSでかなり露出したり、セルフプロデュースに力を入れてなくって、でも心の中に言いたい事を抱えている人は山ほどいるので、そうした今まで出会ったことがないタイプの人の声を一番最初に聞けるのが面白いからだと思っています。
例えば、こちらがある有名人にインタビューすることになっても、相手は何回も取材されているので、どんな質問を投げかけても今まで発言したことのアップデート版しか多分返ってこないでしょう。だいたいフォーマットが決まっていて、こういう質問すればこういう答えが返ってくるだろう、こうしたやり方をすればちゃんと答えてくれるだろう、こういう態度や服装で臨めば認めてくれるだろうと、何となく想像できる。
それは、こちらの想像の範囲に収まってしまって、スリリングさがないんですよ。
でも、『dm』に書く人たちの大部分って、そもそも雑誌などに書いた経験がないし、ちゃんとした文章を初めて書くっていう人も結構いるんです。それって本当に新鮮な事で、相手との間合いをいちいち探りながらやり取りしていく面白さがある。
――コミュニケーションの新しさがあるわけですね。
すごいあります!
――ただ、今回特に思ったんですけど、世の中にはアウトプットとして、写真や映画などの表現手段がありますよね? それも一種の“声”だと思うんですが、そんな中で文章になぜこだわり続けるんですか?
自分が心の中で思っていること、自分が普段表現していること、そして文章に表れることは、それぞれ微妙に異なると感じているからです。特に、知覚と文字は必ずしも一致しないと常に感じています。
加えて、自分が得意なものとして表現していることは、その人のほんの一部に過ぎない。自分が慣れ親しんでいる表現手法だからこそ、その奥に潜んでいる自分がかえって隠れてしまうことってないですか?
そこで、相手が眠らせている部分を文章という別の角度から探っていくと、まったく別の側面を取り出せるので、こちらとしてはよりスリリングです。
――アウトプットを普段している人にとっても、「新しい表現」に出会うことになります。
その通りです。あと文章はこちらのフィールドなので、こちらのもくろみに巻き込みやすいっていうのがあるかな。
――なるほど。
相手が得意とするフィールドに寄せていくと、こちらのコントロールできる部分が減ってくるんだけど、文章というフィールドに一回足を踏み入れてもらえると、逆にこっちがたぐり寄せられる部分が大きくなるので、助かるという部分はあります(笑)。
――今はボイスチャットや映像でやり取りするなど、コミュニケーションの部分で非言語化しているのが社会の流れとしてあると思うんです。その中で、活字にこだわる理由をもうちょっと深く聞いてもいいですか?
まず、活字は「書くのが単純に苦しい」っていうのがあります。
――ストレス、ということ?
文章って、自分が思ったことをそのまま書けば相手に伝わるものではなくて、相手に自分を過不足なく伝えるってことを考えた時、場合によっては何十回でも直してもらわないとダメなわけです。このストレスにとことん向き合うことで、「自分が自分自身の底に秘めているものって一体何なんだろう」という問いの答えがだんだん見えてくるなと思って。
――形にするっていうか、作品としてのアウトプットになってきますよね。
例えば、僕があるものについて述べないといけなくなった時、「あれって〇〇なんだよね」って単純に言い切った場合と、そのあるものについて言葉を尽くして語らないといけない場合って、後者の方が10倍ストレスがかかりますよね。
だけど、単純に非言語化にとどめておくことで抜け落ちる情報っていうのは山ほどあって、そういう「ことばの落穂拾いをすること」が『dm』の使命だと感じているんです。
――すごい明確な答えですね。では今後、ちょうど2050年ぐらいになった時に、言葉や言語はどうなってると思いますか?
書き文字や話し言葉は技術の刷新に従って、ある程度更新されていくと思います。ボイスチャットなど出てきていますが、もしかしたらこれから頭の中に語りかけるテレパシーのような技術が出てきて、みんな書いたり、話したりしなくなるかも知れない。
したがって、外から見ると誰もが沈黙した世界が生まれる可能性もありますが、「何かを誰かに伝えたい」という伝達手段としての「言葉」っていうのは、依然として残っていくのではないでしょうか。おそらく人間の持つ言葉は、ある部分ではこれから省略されていくけど、ある部分ではより進化していくはずです。
――もし何か新しい革新があって、言葉が進化する時でも、やっぱり内省的だったり、自分のコアとしての部分は言語的、文章的だということでしょうか? なんかSF的な話ですね。
人間は技術が革新された時、自分がA地点からA’地点に一気に移ったと思っているかも知れないですが、実はそんなことはないです。技術が革新していったとしても、絵画というものの本質は、「何かに対して何かを写し取る」で変わらないのと同様、言葉も「誰かに何かを伝える」という点では決して消滅することはありません。
むしろ、より本質がむき出しになっていくでしょう。だとすると、ずっとこの『dm』で追求し続けている、「皆のコアの部分を抜き出していくこと」がより簡単にできるようになっていくので、ある意味で制作は楽になっていくはずです(笑)。
――興味深いです。では、「自分の文章を綴るということ」はどう進化していくと考えていますか。
逆に聞きたいのですが、仮説でも構いませんけど、清野さんは今の時点でどうなっていくと思っていますか?
――ピクサー映画でも悲しみとかキャラクター化して出てくるもの(※1)がありますが、そういうふうになったらなんか面白いなって思うんですよ。
※1 悲しみとかキャラクター化して出てくるもの … 2015年公開の『インサイド・ヘッド』を指す。主人公・ライリーの頭の中には、擬人化した「ヨロコビ」「カナシミ」などの感情がおり、お互いにやり取りしている。
確かに。
――今、あなたと話しながら思ったのは、「文章を書く」っていう行為自体が、結局のところ、自分との「対話」だなって。
「書く」というのは、基本的に誰かに対して発している行為。日記を例に挙げると、自分の気持ちをただ書いているように思えますが、その実際のところは、「自分自身に対し、言葉を発して確認している」んですよね。
――分かります。
本当の意味で、「自分の中に閉じこもる文章」っていうのは存在しなくて、書いてしまった段階でもう自分の外に存在してしまっているわけです。実際、『蜻蛉日記』(※2)、『更級日記』(※3)など「日記」と銘打たれた文章って今なお残って、「文学作品」として受け止められていますよね?
※2 蜻蛉日記 … 平安時代、藤原道綱母が、自身の夫・藤原兼家との結婚生活などについて綴った日記文学。
※3 更級日記 … 平安時代、菅原孝標女が、13歳から52歳頃、物語に耽溺してから子どもたちの自立を経て孤独を感じるようになるまでの人生を綴った日記文学。
――確かに。
本来、自分の内面を書いている主観的なはずの「日記」が、客観的な「文学作品」としてとらえられている。そうですよね?
――評論もそうです。「自分の考えを言っている」というより、「誰に向けて言っている」かというのがあります。
まったくです。自分の心の中だけで保っているものは、一度形にしようってなった場合、「伝達」というものを必ず逃れられないということです。
――あと、人間って根本的に文章を書きたいのかなって思います。そういう欲求が根本的にあるんじゃないかなって思うんですが…。
「自分を知ってほしい」っていうのはあるでしょう。人は「誰かに分かってもらいたい」「自分を露出したい」と思う存在ですから。先ほどの話に触れると、「自分」という意識の部屋がまずひとつあって、そこでは、「私の怒り」「私の喜び」といった感情が実際の形を取った上で、会議のようなことをやっている、といったことは未来においては起こり得ます。
――私もそういうものを考えてました。まったく一緒です。
多くの人がよくYouTubeで自分の普段の様子を配信しているように、私たちがそうした「会議」の様子を第三者として観ることができるサービスが出てくるかも知れないですね。
――それはやっぱり、「自分を伝達したい」という欲求が必ず生まれるから?
そう。
――YouTuberを観るのだと、ひとりの人間の時間の長さと付き合うことになりますね。だから、あなたがさっき話したような「自分会議」を観ることで、相手と自分の距離感をより近付けたり、新たに学ぶこととかあると思います。
YouTuberと、今お話ししてくれた「自分会議」が異なるのは、YouTuberってあくまでひとりの人間でしかないので、同時に同じ感情を発露することはできない。あるタレントの話ではないですが、「笑いながら怒る人」というのは、現実には難しい(笑)。
しかし「自分会議」の場合、私たちは別個の感情がまるで異なった会話を交わしている瞬間を観ることができる。私はそんなこと思っていないはずなのに、でも心のどこかでは確かに怒っている、悲しいはずだけど、どこかでは喜んでいる部分もあったりするっていう、人間の心のひだの部分を第三者が演劇と同じスタイルで観られるかも知れない。
――「人を知りたい」という欲求は根源的なものなんでしょう。そういうのはなくならない。「人を知りたい」ということは、「人とつながりたい」ということですからね。
自分と違う存在がどんなものかを知りたい、認識したい…。
誰かの形になった意識を自由に観ることが可能になると、私たちが今こうやって向き合って話している以上に、画面の中を見るだけで、相手のことが分かるようになりませんか? 「この人は普段こういうふうに言ってるけど、怒りの感情が意外と強いのかな」とか、「こういうことに怒っているのか」とか、一人コントを見る感じで楽しめる。それも面白いですね。
そうなった時に人気になりそうなのは、自分の一つ一つの感情が強い人じゃないかと感じています。
――全方位的に面白いというか、要するに異常に感情の振れ幅がある人。
感情の振れ幅が広すぎて、ネット上にも出て来れなかったような人が人気を得るようになる、のでは。
――それこそ演劇的ですよね。演劇って普段の事象をすごく大きく表現するじゃないですか。だから、今後はもっと演劇的な世界になっていきますか?
なってくるのではないでしょうか。感情面が激しく出ている人は、「誰かの人生の映画に出てくる俳優」として見た時、非常に興味深く感じます。
――またそうなってくると、自分と近い存在もより見つけやすくなる?
なるはずです。YouTubeでオススメの動画を紹介されるように、「この人の感情のチャンネルを観ている人は、この人のチャンネルももしかしたら合っているかも?」といった具合に、アルゴリズムを介して似通った人と接しやすくなるでしょう。
――同じ傾向の人を一層見つけやすくなるし、他の人の考えでも一層分かり合えるっていうか、分からないけど少なくとも知るっていうことがしやすくなるかも。それは、表立った「言葉」が無くなることで良くなる部分かも知れないです。
気持ちが形になってくれるといろいろ楽になってくると思います。感情をより具体的な形としてとらえられるようになった場合、相手の偽りきれない人間性っていうのもハッキリ見えてくるから、コミュニケーションはある意味より楽になるんじゃないですか?
――さて、ここからまとめに入りますが、あなたは、「2050年への三歩」という今号の背景をどう考えてるんですか? それは、あなたが『dm』上でほぼ文章を書かないという点にも繋がると考えているのですが…。
文章を書かないのは、自身を『dm』と切り離したいという思いがあるからです。それぞれいろいろな立場があると思いますが、「雑誌は編集長の持ち物ではない」というのが持論としてあります。
そして、背景に込めた思いですが、2050年が来た際、この雑誌に書かれたことを「良かったな」と思って読んでくれるような未来をみんなで歩んでほしい。「この雑誌に書いたような未来にならなくて残念だったな」みたいな未来の訪れを決して望んではいません。
――では逆にいうと、この雑誌を作ること自体が、あなたにとっても「2050年への三歩」であるという…。
そういうことです。
――すごくいい感じにまとまりましたね!
この「2050年への三歩」というのは、決意であると同時に約束なんです。自分は30年後、2050年を描いたこの雑誌を読んだ時、「恥ずかしく思わない」とか「後悔しない」とか、そんな約束。自分の歩んでいく道がここで決まっているっていうふうにとらえていくといいかも知れないですね。
――では、他の執筆者の文章をこうして一冊の雑誌にまとめているけど、ある一面では、あなたの今思う「理想の2050年の形」でもあるっていうことですね?
そうですね。前書きの「可能性にあふれているはず、歩んでいけるはずの未来から私達の足元にある向かう先を逆算してみよう」(※4)という言葉ですが、2050年を先取りして定めることによって今の自分の立ち位置をハッキリさせる、という意味を込めています。
※4 「可能性にあふれているはず~逆算してみよう」 … 巻頭にある「“今”の向こう側にあるものを目指して」では、「目の前に立ちはだかる“今”という壁を飛び越えて、その先に拡がる地平線のない未来に驚いてみよう」という一節に続いて、この言葉が登場する。
自分の今のこの足元だけを見ていると、この先どこに歩んでいけばいいのかが分からない。なら逆に、自分の向かう未来である2050年を先に決めてしまえば、自分はこの光のある方向、目指す方向にちゃんと達することができるんじゃないか、って考えたわけです。
――少しでも道を作るという。
だから言い換えると、さっきの「未来の自分への約束」ってことになります。
――いい言葉ですね。…ひとつ気になっているのですが、このインタビュー自体、あなたが自分の言葉を形にしたいって思ったんです。そして今号ですが、「Hope & Future」とハッキリしたテーマを打ち出していますけど、今回そのぐらいはっきりしたメッセージを送っているのって、一体どうしてなんだろうと感じました。
理由は二つあります。
まず端的に、雑誌を取り巻く状況が厳しい。3年前(2016年)に第2号を出した時の状況と打って変わって、そもそも新しい雑誌がリトルプレスも含めて書店に並ぶということが減りました。
その状況で、雑誌を発刊すると考えた場合、3年前みたいな読者との距離感では到底太刀打ちできない。かつてのスタイルで切り込んでいっても、お客さんの心はつかめないだろうなと気が付いたんです。雑誌が「Hope & Future」って言っているのに、発行人が変わらずに昔みたく距離を保ってたらおかしいかなと。
――では、あなたにとってもすごい三歩ですね。
そういうことになります(苦笑)。
――では、もう一つの理由は?
今言ったこととも重なるんですけど、自分が考えていることを明らかにする必要があると感じたことです。今まで、なるべく自分を見せないよう、なるべく後ろに控えて気配を感じさせないようにしてきたわけですが…。
――今回は、そこがちょっと全然違うなって思ったんです。
鋭いですね…。(少し考えて)こういうテーマで雑誌を出している以上、自分の姿を完全に隠すというのは誠実ではないですし、好む好まないに関わらず、今という時代の中で出している雑誌なので、これだけスタンスをはっきりさせなければいけない状況に、『dm』だけが何も打ち出さない安全圏にいるのは責任を果たしていないことになると思いました。
――そうですね。
たった一人、世界と隔絶した雑誌を出し続けているわけにはいかないなって。かといって、ことさらに何かのメッセージを発信し続けるっていうことも、この雑誌のカラーとしてあまりそぐわないので…。
――バランスの良い距離感を保ち続けるということ?
こちらがメッセージを「ある程度吟味して」発することで、読者は雑誌の立ち位置が分かると同時に、線引きしているものもまた見えてくるだろうな、っていうことです。
――なら、それも今後変わっていく可能性もある?
もちろんあります。
――なるほど。では、最後の質問ですが、次号のテーマは決まっているんですか?
今は決まっていないですが、3年以内に出せればいいなと考えています。執筆者を集めるのが一番大変です。人を単に集めれば雑誌になるわけではないので。